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#山に十日 海に十日 野に十日 2月

YAKUSHIMA ZINE

炭を継ぎ薪を燃やして

 屋久島の冬は寒い。島の北部で暮らす島人は、特に寒がりである。前岳に雪が積もり、北西の風が吹き荒れ、気温が10度を切ると、「凍え死ぬよね」なんて、たわけたことをのたまうのだから、情けない。

 だが、明治10年に建てられた我が家は、本当に寒い。礎石の上にポツンと乗っかっているだけの「キャクロ作り」なので、床下はスッポンポン。冷たい風が、我が物顔で通り抜け、時折畳の隙間から、家の中へと不法侵入してくる。壁も一枚壁なので、アチコチに開いている節穴から、虎落笛を吹きながら飛び込んでくる。

 娘婿が、初めて冬のわが家に来た時、「隙間風が、寒いだろう?」と気遣ったら、
「これは隙間風ではありません。外と同じ風が吹いています」
と言われて、びっくりしたことがある。
 長年住んでいると、気づかないものである。これは、「隙間風」ではなかったのだ。外と同じ風が吹いていたのか? どうりで寒いはずだ、と妙に納得してしまった。
 屋久島は一応南の島なので、そもそも家の作りは夏向きを旨としている。だから、寒いのは仕方のない話なのであるが……。

 島を訪れる観光客に、屋久島の北部の人たちは寒がりなので、「11月にはもうコタツを出して、4月まで潜り込んでいるよ」と言うと、「そんな話、やめてください。南の島のイメージが壊れちゃうじゃないですか」とひんしゅくを買う。だが、寒いものは寒いのである。特に高齢になると、寒さがこたえるのである。

 そんなわけで、わが家の冬の暖房は、かなり重装備である。まずは厚さ8ミリの銀マットを並べ、その上に冬用のカーペットを敷きつめてコタツを乗せ、第一暖房具セット完了。第二暖房は、エアコン。26~27度にセット。だがエアコンの風はあまり好きではないので、第二暖房の出番はそんなに多くはない。
 一番頻繁に使うのが、第三暖房の箱火鉢である。12月から2月にかけての約3か月、ほぼ毎日炭を熾す。
 火鉢の火は、本当に重宝である。お湯を沸かしたり、煮炊きをしたり、酒の肴を炙ったりと、大活躍。赤々と静かに燃える炭の色合いが、身体だけではなく心をもまた温めてくれる。
 座敷の中心に鎮座し、シュンシュンと湯気を立ち昇らせ、加湿器の効果も兼ねている箱火鉢は、わが寒き家には欠かせない必需品である。寝る前には、そのお湯を湯たんぽにいれて布団へと運ぶ。

 さらには、第四の暖房器具も用意してある。薪ストーブである。部屋の隅にレンガを積み、自作した。安物のだるまストーブなので、燃焼効率は悪いが、部屋の中で薪を燃やし、ゆらゆらとうごめく炎を見つめながら時を過ごせるというのは、まさに至福の時間である。
 人類のサイズが、「火を扱うのに最適のサイズ」だったことに、心から感謝したいと思う。

 冬の寒さをしのぐのに、絶対に欠かせないものがもう一つある。それは、「薪風呂」である。一日の仕事を終え、薪で沸かした風呂に入る楽しみ! それは、何よりも嬉しい時間帯である。お尻の方から背中へと、じわじわと対流する温かなお湯に包まれて、鼻歌を唄っているひと時の、なんという心地よさ。心を無にして、夕方6時に鳴るお寺の鐘をききながら浸る湯舟は、まさに「極楽」である。

 そんな、薪や炭にこだわる我が家の暮らしぶりは、かつてはどこの家でも、当たり前に行っていた日常だった……。
 薪や炭を、里山からいただきながら暮らしていくという生き方が、もう一度陽の目を見るということは、ありえないのだろうか? 

 屋久島の森の変質、それは昭和30年代の「燃料革命」と「拡大造林政策」によって、加速化した。特に広葉樹の森は、木炭や薪などのエネルギー源としてはもはや時代に適さないとみなされ、全面伐採された。
 さらにパルプ材としての供給が拍車をかけ、里山から中腹地にかけての広大な広葉樹の森は、昭和30年代初期に導入されたチェンソーによって大面積皆伐され、やがて「杉の単一林」へと姿を変えていった。
そのことにより、生態系にも、そして島人の暮らしにも、さまざまな歪みが生じることになる……。

 屋久島の森の歴史は、国の政策や時代の要請によって、翻弄され続けてきたのである。
 林政学や民俗学を研究している柴崎茂光は、『林業遺産:保全と活用にむけて』(東京大学出版会)の中で、次のように述べている。

1960年頃より以前は、薪や木炭用の薪炭材生産が盛んに行われ、エネルギー革命前後から、パルプ材として広葉樹は盛んに伐採された。1930年代に入ると軍事利用も増大し、屋久島国有林内での木炭生産は盛んとなる。同林内で生産された木炭は、工業用木炭として島外に出荷された。たとえば、鹿児島県産業組合連合会の販路開拓の仲介により、大阪歩兵工廠、呉海軍工廠、小倉陸軍工廠、佐世保海軍工廠などに、木炭が機帆船で直送された。炭焼き作業員は、営林署の職員から、「軍事工場に送るのだから良い炭を作れ」と命じられ、1943年頃までは寝る間も惜しんで作業を行った

 大きな時代のうねりが迫りくる今、国の政策に翻弄されることなく、炭を継ぎ、薪風呂を焚き続けるような、そんな平穏な日々を積み重ねながら生きていたいと願う。
 だがどうやったら、そんな穏やかな日々を樹立していけるのだろうか。どうすれば、容赦ない時代の流れに抗えるのだろうか。
「国境離島」という、防衛ライン上の島に暮らすものとして……。

 赤々と静かに燃える炎を眺めながら、そんなことをつらつらと考えた2月であった。

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